筆者が最近著した『どかんかい』(BABジャパ
ン)の横綱前田山英五朗が少年時代高砂親方と出会
った地である。
 そして、前田山がジェシー高見山をデビューさせ
国技大相撲を揺るがしたのと時を同じくして、国技
柔道を激震させたオランダのアントン・ヘーシンク
を育てた道上が生まれたのもこの八幡浜だった。
 少年時代、道上が小学校から帰宅する時、近所の
神社の前を通った。すると、神社内の畳の上で十四、
五歳の男子たちが互いに白い服を着て掴み合ったり
投げ合ったりしていた。
 道上は彼らのやっていたものが柔道だとは知らな
かったが非常に興味をもった。ある日、彼らがまだ
来ていない時に、彼らのやっていたことを思い出し
ながら道上は一人で受け身を稽古してみた。
「本格的にやってみたい」と思ったが、道上はまだ
幼く中学生たちにも相手にされなかった。
 その後、道上はこの地方で盛んだった相撲の稽古
を始めるようになった。道上は次第に頭角を現わし、
西宇和郡下の小学生の相撲大会で優勝するまでにな
った。
 そんな時、道上は一冊の本と出合い衝撃を受ける。
前田光世の「世界喧嘩旅行記」である。前田光世は
グレイシー柔術のルーツとなった柔道家で、世界を
渡り歩きいろいろな格闘技の強豪たちと対決する話
に道上は血沸き肉踊った。
「俺も前田のようになりたい」
 これが道上が柔道を始める直接の動機になった。
 
● 初段獲得 ●
 
 道上は十三歳の時、八幡浜の商業学校に入った。
すでに相撲で幾度も優勝していた道上に目をつけて
いたボート部の先輩は、道上の気持ちも考えず自分
たちの部活動に道上の名を登録した。その結果、道
上は柔道部の他にボート部に所属することになった。
しかし、それらのトレーニングを通じて道上はめき
めと体力をつけていった。
 翌年、道上は茶帯になった。学校で彼にかなう者
はなくなっていた。
 道上が十五歳になった時、柔道部の先生は道上を
黒帯に推薦することに決めた。
 八幡浜から八十キロほど離れた松山市の武徳会支
部に道上は単身出かけた。
 受験者を見るとすべて二十歳から三十歳くらいだ
った。そして、その鍛えられた体を見ただけで道上
は感銘を受けた。  試験は朝九時から始まった。
 最初は筆記で「柔道を学ぶ意義」と「様々な動き
の説明」に解答しなければならなかった。それを終
えると型の実技があり、これで午前の部が終わった。
 午後は乱取り試合の試験だった。
 受験者は五つのリーグに分けられた。一試合四分
で、≪一本≫を二つ取らなければ勝ちと認められな
かった。
 しかし、道上得意の≪大内刈り≫≪はね腰≫≪体
落とし≫≪背負い投げ≫などを次々に極めていきす
べての試合に≪二本≫を取り勝利した。  この快挙に道上は喜びあがった。
 ところが、他の合格者たちは認定証を授与され意
気揚々と帰路についたのに道上は段位を与えられな
かった。
 試験官は道上にこう言った。
「審査結果はきみの師匠に伝えるから、今日はこの
まま帰れ」
 帰宅した後、両親や柔道仲間に結果を聞かれたが、
認可されたか定かでないので返答するのが辛かった。
「道上が初段を認可されるかどうか?」
 これは八幡浜では皆の話題になった。当時、黒帯
は小さな田舎町では最も珍しいものの一つだったか
らである。
 待ちに待った結果が届いた。
 合格していた。
 なぜ、道上だけが遅れたのか。それには理由があ
った。
 十五歳の少年が初段に合格するということは愛媛
県地方では珍しいケースで、そのことで道上が有頂
天になるのではと審査委員の一人が懸念したからで
ある。
 しかし、討議の結果最終的に彼らは道上に初段を
認可した。
若き道上氏、まさにコンデ・コマの雰囲気である