※インターネットの性質上、縦書きだった構成を 横書きに置き換えております。ご了承ください。
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◎短期連載 武専柔道が講道館柔道に勝った!
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怪物ヘーシンクを育てた男 武専柔道の コンデ・コマ
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道 上 伯 物 語 (下)
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文 今田柔全
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世界を股にかけて活躍したコン・デ コマこと前田光世。道上氏の柔道人 生の原点は、前田に対する憧れにあ った。 武専への入学、国内での華々しい活 躍を経て、道上氏は上海での指導を 開始する。 後編ではいよいよ、ヨーロッパを中 心に柔道を広め、ヘーシンクを世界 の頂点に導いた名伯楽の歩んだ足跡 に迫っていく。
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● 消えた二百万円 ●
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佐島の砲弾を深海へ放棄するためにスコットラ ンドの兵隊が二十四、五名来ていた。その兵隊た ちが、警察署長の所へやって来た。 「柔道を教えてほしい」 それで署長は「それなら道上先生が適任だ」 と、道上に依頼がきた。 「ようし一丁やってやろう」 そのスコットランド人たちは梅月という大きな 料理屋を宿舎にしていた。それでその梅月の二階 の広間で教えることにした。 道上は燃えていた。 「投げつけて、押さえつけて、締めつけて、日本人 はまだ生きておるんじゃぞう、というところを見 せつけちゃろう」 と、思い、 「早く、着替えてこい!」 と、怒鳴った。しかし、皆びりびりして誰も着 替えることができなかった。 上海から送っていた二百万円の小切手を現金化 しようと道上は神戸に発った。 神戸の町は焼け跡となっていた。掘っ立て小屋 の営業所を見つけ、その小切手のことを話すと営 業員は応えた。 「それは、お送りになったでしょうけれど、それら の書類は焼けてしまって、このとおりです。です から問い合わせてみます」 しかし、上海は中国だし日本の銀行はない。五 十二銀行が八幡浜市にあり、そこに先輩がいたの で、そのことを話したらびっくり仰天した。 「先生は随分金持ちだなあ」 あまりの金額に、後輩の道上に対して「おまえ」 じゃなく「先生」と呼んでしまった。 ところが結局、マッカーサー司令で外地から持 って帰った小切手は支払い停止。日本の銀行の金 庫は全部封印されて金は渡さない。小切手も渡し てくれなかった。もし、渡してもらっていればこ の時点で道上は有数の金持ちになっていたであろ う。
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● 八西柔道会発足 ●
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九月に上京したら東京は焼け野原だった。 「日本はこれで終わるのではないか」 と、思った。 それで道上は学長の期待に応えるべく、富山の 伊藤忠兵衛の呉羽工場に滞在中の学生の指導のた め無蓋貨車で東京から富山へ行った。道上はそこ で学生と共に過ごしたが、頭を悩ました問題は広 い宿舎の暖房や食べ盛りの学生の食事だった。 道上は同文書院の教授兼学生生徒主事そして厚 生課次長を兼ねていたので富山県庁に交渉したり 山中に分け入って薪炭屋に交渉したりと走りまわ ったが、富山の人々の厚意に感激した。 しかし、マッカーサー元帥の武道禁止令が出さ れたため道上も再び八幡浜市に帰った。十一月下 旬に八幡浜市に帰省してからは、かつての上海時 代の同志の帰国を待って将来を話し合った。 同文書院教授という肩書きも敗戦直後の日本で は何ら生活の足しにはならなかった。そこで同郷 の後輩と話し合って小さいトロール船を購入し、 底引き網で生活を支えることにした。
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八幡浜にある道上氏の生家
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一九四八年になると柔道が復活し、市警察署長 や国家警察署長から柔道指導を依頼された。道上 は辞退していたが、ある日青少年数名が道上家を 訪ねてきて懇願した。 「よかろう」 道上は快諾した。 彼らの気持ちが伝わってきたことと、道上が 「祖国の復興はいつも青少年に期待せねばならぬ。 それには心身を鍛えねばならぬ」と思ったからだ。 国警の二階を借り十六枚の畳を敷いて始めたと ころあっという間に会員が増えた。そのため二階 が騒々しくて国警の一階で事務ができないという ことになった。そこで、かつての県立女学校の体 育館を借り受け、有志の浄財を得て畳を購入した。 道上の武専の一期後輩で現柔道八段の清水宗章の 助力を得て発足した八西柔道会(八は八幡浜、西 は西宇和郡の意)は、現在も続いている。
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