道上師範と松前氏(左)
その中にヘーシンクがいたのです。
 
巨漢ながら繊細だったヘーシンク
 
吉峯 ヘーシンクは先生から見て、ど
のような人でしたか?
道上 当初から非常に真面目な人でし
たね。その当時の彼は196センチで、体
重は84キロしかなく、非常に痩せてい
たのですが、柔道に関しては人一倍稽
古熱心で、私は何としても彼を伸ばし
てやりたいと思いました。ヘーシンク
に限らず、オランダ人とフランス人と
では柔道に対する取り組み方が少し違
っていまいた。これは国民性の違いな
のかもしれませんけれど。
吉峯 といいますと
道上 フランス人の場合、大体におい
て技術を頭で理解できれば、それで
「わかった」ということになります。
しかしオランダ人の場合、決してそう
は言わないんですね。「ここはこうや
れ」と言うと、それを何十回でも繰り
返す。つまり体を通して技を自分のも
のにしないと気がすまないのです。で
すからこれは伸びると思いました。
 柔道にはご存じのように「八法の崩
し」というものがあり、その上にアク
ション・リアクションの反射運動の応
用があります。それをオランダでも教
えたのですが、皆熱心に習得しようと
していました。うまくできない人には
つきっきりで指導したものです。 吉峯 一九五六年の第一回世界選手権
にもヘーシンクは出場していましたね。
道上 あれは東京で行われたのですが、
その時に私はヘーシンクに「自分の技
を見せてはいかん。相手の技を見て研
究せよ」と言ったのです。ですから第
一回の大会では彼は良い成績ではあり
ませんでした。第二回の選手権は一九
五八年ですが、その時にヘーシンクに、
よくよそを見てこいと言ったのです。
そこで講道館や天理大学にも行ってい
ます。その時も自分の技を出さずに、
相手に技を出させて、それを破る方法
を研究することを課題にさせました。
 それに対して、彼は実に真面目に取
り組んだものです。そして第三回の選
手権の時は「お前は必ず勝つから、自
信を持ってやれ」と言いました。彼は
体は大きいけれど神経は非常に繊細で、
試合で出番が近づいてくるとガタガタ
震えるものですから、「しっかりせん
か!」と渇を入れたこともあります。
 
講道館が怒った道上翁の「爆弾発言」
 
吉峯 第三回の選手権の前に、先生は
ある雑誌の誌上で「爆弾宣言」をされ
たということですが、これはどういう
内容なのですか?
道上 第一回と第二回の大会ではヨー
ロッパの選手は良い成績ではなかった
けれど、第三回では必ずヨーロッパの
選手が優勝するであろう、と言ったの
です。そうしたら講道館の連中が「道
上は何を言っておるか!」と怒りまし
てね。でも試合では私の言った通り、
ヘーシンクが決勝まで一本勝ちをとり
続けて優勝しました。
吉峯 ずっと一本勝ち、というのは凄
いですね。
道上 それが私の指導方針だったので
す。つまり有効や技ありではだめだ。
一本勝ち以外には柔道には勝ちはない
のだと徹底して教えていたのです。こ
れは私が育った武専の方針でもありま
した。それから第四回の選手権でも彼
は出場し、これも優勝しています。
吉峯 その後、あの有名な東京オリン
ピックでの優勝、となるのですね。 道上 あの時、実は控室に呼ばれまし
て、私の先輩方から「なぜヨーロッパ
人に優勝させたんだ」と文句を言われ
たものです。
 これについてはくわしく説明しなけ
ればなりません。私が武専の四年生に
なった時に講道館を訊ねたのですが、
そこで嘉納治五郎先生とも会いました。
その時嘉納先生は「君たちは専門家な
のだから、柔道を国内だけではなく世
界的に広めてもらいたい」とおっしゃ
ったのです。
 東京オリンピックの前年に、私はフ
ランスに政府公認の「アカデミー・ジ
ュードー・ミチガミ」を設立していま
したが、オリンピックの時にはフラン
スの柔道家百一名を飛行機を借り切っ
て東京に連れてゆきました。私は鎌倉
の光明寺に泊まって、当初オリンピッ
クは見に行かないつもりだったのです。
ところが、ヘーシンクは私が試合場に
いないと不安でたまらないというので、
結局は試合場に行くことになりました。
そして決勝戦で神永昭夫を敗って金メ
ダルに輝いたのはご存じの通りです。
 
ピアノの難しさ、柔道の難しさ
 
吉峯 西洋人は平均して日本人よりも
体が大きくて体力にも恵まれています
が、先生はそういう連中を相手にして、
やりにくいと思ったことはありません
でしたか?