※インターネットの性質上、縦書きだった構成を 横書きに置き換えております。ご了承ください。
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求道者の軌跡 8
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ヘーシンクの”育ての親”が語る 講道館と武徳会の”真実” そして柔道の極意
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ゲスト・道上 伯 ホスト・吉峯康雄(古武道研究家)
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仕掛けは「アクション・リアクション」 動きは「オートマチック」
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時は1964年。東京は、いや国中がはじめて日本で開 催されるオリンピックにわき返っていた。なかでも 柔道は五輪種目として採用された初の大会であり、 本家本元である日本に敗北は許されなかった。しか しそこに大きく立ちはだかったのが、アントン・ヘ ーシンクだったのである。 「求道者の軌跡」第8回は、ヘーシンクの知られざ る”育ての親”道上翁に、ヘーシンク指導秘話など をお聞きするほか、武徳会柔道(柔術)の真実に吉 峯康雄が鋭く迫る!
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コンデ・コマに憧れて始めた柔道
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吉峯 さっそくですが、道上先生が柔 道を始めた動機はどのようなものだっ たのですか? 道上 私はヨーロッパやアフリカで柔 道を指導するようになって、既に四十 七年になるのです。日本に帰ってきた のが二十回くらいで、滞在期間も短い のです。何とか日本語を忘れないよう にしようとしているのですが、外国で の生活がほとんど中心なものですから、 日本語を聞いたり話したりする機会が あまりないのです。 柔道を始めた動機ですか? それは 子供の時に前田光世の『世界喧嘩旅行 紀』を読んだのがきっかけです。ご存 じ、後のコンデ・コマですが、外国で いろんな人を相手に柔道で対決しては 投げ飛ばすという話に夢中になり、い つか自分も前田光世のように柔道で海 外雄飛をしたい、と考えるようになっ たのです。十三歳の時に地元の商業学 校に入学すると同時に柔道を始めて、 十五歳の時に初段を取りました。その 後、大日本武徳会の武道専門学校(武 専)に入ったのです。 吉峯 先生が学ばれた武道専門学校は、 どのようなところだったのですか? 道上 武専は私が入った頃には五百人 もの受験者がいました。でもそのうち 二十人しかとらないのです。大日本武 徳会は柔道や剣道をはじめ、実に様々 な武道の部門があったのですが、武専 はその中の機関でした。 吉峯 そのころのお話をお聞かせ下さ いますか。 道上 たとえば、今の試合では客席か らやんやと応援の声が飛び交うのが普 通ですが、当時は試合は非常に厳粛な 雰囲気で行われたもので、応援は好ま しくないものとされていました。試合 中にフラッシュを焚いて写真を撮るこ とも厳禁でした。 それから武専では四年生になると武 者修行というものがありましてね。私 の前は台湾、その前は満州や朝鮮に行 くことになっていました。私の場合、 二年生の時に広島に行って、土地の柔 道家と試合をしましたが、これは問題 なく常勝しました。三年生の時には名 古屋でしたが、この時は十対十の団体 戦を行いました。そこで私が五人抜き をやったのです。個人試合でも九対一 でした。四年生の時には武専の同期生 十名とともに東海道から北陸、山陰を 試合して回り、東京の高等師範学校で も稽古をしたものです。
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「アクション・リアクション」
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吉峯 アントン・ヘーシンクを指導す るに到るまでの経緯はどのようなもの だったのですか? 道上 一九五三年の七月に初めてフラ ンスに行ったのですが、これは私の武 専の恩師からフランス柔道連盟会長の ボネモリ氏を紹介されたのがきっかけ です。私たちの世代は、「三尺下がっ て師の影を踏まず」という教育でした から、そこで一も二もなくボネモリ氏 と会うことになりました。そうして一 年間フランスで指導することになった のです。フランスに到着したのが七月 十一日で、十四日のパリ祭を見て、ト ノンというスイスとの国境近くの町で 二週間の講習を行ったのです。その後 でビアリッツという大西洋岸の避暑地、 それからアルカッションというボルド ーから六十キロほど離れた町で、それ ぞれ二週間ずつの講習を行いました。 フランスへ行く前は私は身長が173セ ンチ、体重は78キロあったのですが、 フランスの気候や食事になかなか順応 できなくて、しばらくすると体重が66 キロにまで減ったものです。それから パリに帰って有段者を教えたのですが、 同時にボネモリ氏から、南西フランス、 つまりフランスの半分の地域の指導を 責任を持ってやってほしいと言われた のです。これは大変なことになったと 思いましたよ。 吉峯 それは承知されたのですか? 道上 何しろ一年間の約束で行ったも のですから、ノンとは言えませんよね。 結局それを引き受けました。そして翌 年の七月十一日になってボネモリ氏に、 約束の一年がたったから、帰りの飛行 機の切符を用意してくれと言ったら、 いや、今は皆が真面目に学んでいるか ら、もう少し教えてくれと頼み込まれ たのです。 というのも、柔道は力づくで相手を 倒すのではなく、「アクション・リア クション」(※)で相手を倒すのです が、そういうことは当時のヨーロッパ ではあまり教えられてはいなかったの です。それならばもう一年やろうとい うことで、翌年、つまり一九五五年の 七月までフランスで指導したのです。 そうしたら、一月にオランダから有段 者が二十人ほどやって来て、私が教え ていたフランスの有段者の稽古に参加 したのです。それが縁で、ぜひオラン ダに教えに来てほしいと言われました。
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※道上師範は体格に勝る相手を倒す柔道の極意を フランスでこのように表現して指導している。
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ヘーシンクとの出会い
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道上 私は、これで日本に帰るんだと 断ったのですが、するとなんと彼らは 五月にボルドーの稽古へ、オランダか ら自動車で千二百五十キロもの道のり を飛ばしてやってきてしまったんです。 これには驚きましてね。そんなに情熱 を持っているのなら、一回くらいは行 ってやるべきじゃないかと思い、自動 車でオランダに向かったのです。 吉峯 それがオランダ人に教えるきっ かけですね。 道上 そうです。オランダでは約一週 間教えたのですが、ぜひともまたオラ ンダに来てくれと言われました。それ からわざわざ飛行機の切符を送ってく れたのです。二度目にオランダに行っ た時には、オランダ柔道連盟の最高技 術顧問になってくれと言われました。 そんなことはできないと断ったのです が、ぜひにでもと求められるものです から、それならばということで及ばず ながら引き受けまして、年間五回くら いはオランダに行くことになったので す。それで私は一九六一年まで日本に 帰れませんでした。 というのも、ヨーロッパだけではな く、アフリカ諸国、キューバの近くの マチニクやグアドルップといった国に まで請われて指導に出向いていたので す。オランダでは二十人から二十五人 くらいの弟子を指導していましたが、
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