欧州選手権大会はイタリアのミラノ市で催
されたが、オランダ選手は団体、個人とも優
勝し、合計十二個のカップを獲得することが
できた。
 終ると直ちにフランスに帰った私は、遠距
離旅行をさけてひたすら館長からの連絡を待
った。六月初旬、館長一行がフランス、ベル
ギーを旅行中であることもひそかに知った。
それ故に、いずれ連絡はあるだろうと期待し
ていた。
 だが、期待はあまりにも空しかった。間も
なく、私がオランダの協会から受けとったの
は、館長一行はすでに帰国したという知らせ
と、もう一つ、もっともっと腹の立つ、暗い、
一通の質問書であった。
 協会からの何ヶ条かの質問に答えるため、
ペンを走らせながら私はその馬鹿馬鹿しさに
叫びたいくらいだった。すべてに腹が立った。
何が私をこんな辛い立場に追いやるのだろう
か。
 あるオランダ人が、嘉納館長の側近と講道
館の欧州派遣員とベルギーで会って、帰国す
ると、その時かわした話の内容をオランダ柔
道協会に意見具申してきた。その内容が質問
の主意になっていた。私は疑う、本当に日本
の講道館の柔道家が、こんな卑劣なことを語
ったのだろうか。
 質問の内容はこうだった。
「オランダ柔道協会が今後も引続き道上(私
のこと)を最高技術顧問として継続するなら
ば、講道館はオランダ柔道協会に対して一切
の援助を与えない。道上は講道館の免許をも
っている者ではない。云々」
 
さらに道上を断われば、神永五段のような
優秀な指導者を派遣する。そして、道上は今
春講道館長を訪問したが、門前払いをくった
ものである、と付け加えられていた。
 そうしたことが事実か否か、質問状は私に
問いかけている。
私は慎重かつ正しくこれに
答えた。
そして最後に「講道館がそのような
方針なら、自分はいつでも当協会と縁をきる
ことにやぶさかではない。オランダ柔道が正
しく発展することのみを希っているもので、
他意はない」と記し、書類にサインして協会
へ渡したのである。
 協会のある幹部が、やや興奮していた私の
肩を叩きながら言った。
 「オランダ協会は、過去に於て、一度も講
道館から援助を受けたこと無し。それを何ぞ
や、オランダ協会に対して今後一切の援助を
与えないとは。おお、神よ」
 私はこの言葉に救われた思いだった。正に、
おお、神の声であった。それ故に、テープレ
コーダーにおさめて、この言葉をいまも私室
の奥深くしまっているのである。
 私は、どう誤解されようとも、またどんな
犠牲をはらっても、来るべき世界選手権大会
で、オランダの選手に優勝させようという強
い、確然たる決心を抱いた。それが、日本の
柔道に対する私の誠意であり、忠誠であり、
せめてもの恩返しであろうと思った。そして、
それこそ柔道の正しい発展のために役立つで
あろう。
 幸いヘーシンクやその他の幹部、選手諸君
は、事情を正しく理解してくれて、
「言いたい奴には言わしておきましょう。私
たちは今はもう講道館から学ぶべきものは、
何一つない。日本の柔道で学ぶべきものがあ
るとすれば、警視庁に残る武士道そのものの
ような鍛錬、言葉ではいい表わせないあの緊
張した雰囲気のほかにはないのです。私たち
はここにあの雰囲気をつくり、あのような気
持になって修行し、
必ず選手権を獲得し、い
たずらに政治をもてあそぶ連中に反省を求め
ることにしましょう
 
と、逆に私を励ましてくれるのであった。
 そしてオランダで、更に私の家のあるボル
ドーに転じ、世界選手権目指してのわれわれ
の努力は続けられた。その年の十一月が終る
まで、鍛錬の上に鍛錬が重ねられた。
 そして世界選手権のその日が、一九六一年
十二月二日の朝が、意外に早く訪れてきた。
 その朝、私はベッドを離れないまま、在欧
八年の苦しかった過去を追想し、とにかく全
力をつくしてきた運命の今日を静かに見守ろ
う、と決心を固めていた。して、運命の神の
裁きのままに、もしわれに勝運がなければ、
潔く欧州の柔道界そから身を退こう、否、自
らの柔道生命を断とうとひそかに覚悟をきめ
ておいた。
 その時、突然、電話のベルが鳴って、ヘー
シンクの上ずった、怒りのこもった声が、私
の耳を打った。
「先生、神永五段が出場すると発表された」